アメリカの作家・ハリエット・ビーチャー・ストウさんの生涯と残した言葉について、黒柳徹子さんが語ります。
まだ小学校に上がる前、私は足の病気で入院していたことがあります。左足の先から腰までギプスで固定され、私は動くことができませんでした。そのときに夢中になったのが読書です。当時の私にとって本は、行ったことのない場所や自分が生まれる前の時代に出かけて、知らなかった感情を体験することができる、世界でいちばん自由な乗り物のような存在でした。
小学生になると、飛び抜けて落ち着きのなかった私は、最初に入った小学校を退学になってしまいます。そのあと、電車の車両を教室にした「トモエ学園」という学校に転校するのですが、そこで私は泰明ちゃんという男の子と仲良くなりました。泰明ちゃんは小児麻痺を患っていて、歩くとき片方の足を引きずり、手も、長い指と指がくっついて、曲がったみたいになっていました。身体が自由に動かせないせいで、木登りができなかった泰明ちゃんを、私の大好きな木の上に招待したことは、私にとって最初の大冒険で、生涯忘れられない思い出です。そんな泰明ちゃんが、春休みに入る前、「これ、読めば?」と貸してくれたのが、『アンクル・トムズ・ケビン』。それはとても分厚い、アメリカの奴隷が主人公のお話でした。
今回お話しするハリエット・ビーチャー・ストウは、アメリカで初めて書かれた、アフリカン・アメリカンが主人公の物語『アンクル・トムズ・ケビン』の作者で、19世紀に活躍したアメリカ合衆国生まれの白人女性です。ハリエットは、著名な牧師で奴隷制反対論者であった両親の元で育ちました。家庭内で厳格なキリスト教思想の影響を受け、きょうだいにも聖職者や教育者が多くいたようです。本の好きだったハリエットは、教師の姉の助手として働いているときから、懸賞小説に応募していたみたい。
25歳のときに神学校の教授だったカルヴィン・ストウと結婚し、7人の子宝に恵まれますが、暮らし向きは決して楽ではなく、ハリエットは文章を書いて、家計の足しにしていました。そんな中、1850年に“南部の奴隷州から北部の自由州へと逃亡した奴隷を逮捕し、その奴隷を再び脱出した州に連れ戻すために協力しない者に罰を科す”という「逃亡奴隷法」という恐ろしい法律が制定されてしまいます。当時のアメリカは、奴隷制度存続を主張する南部と、奴隷制度の廃止を訴える北部に分かれ、分裂の危機を迎えていました。ハリエットは、義姉のイザベラから「もし私があなたのようにペンを使えたら、奴隷制度がいかに忌まわしいものかと全国民に感じさせることを何か書けるのですが……」という手紙を受け取ります。そのことをきっかけに、ハリエットは奴隷を主人公にした物語を書くことを決意。小説は、週刊新聞に約10ヵ月にわたり連載されました。
1852年にその連載小説が書籍化されると、たちまち話題になりました。初版の5000部が一日で3000部売れ、『アンクル・トムズ・ケビン』は重版に重版を重ね、一年間で30万部以上が売れたそうです。人口比や識字率などを含めて換算すると、今の時代なら何百万部に匹敵する、空前のベストセラーでした。海外でも大変な評判となり、フランスの女性作家ジョルジュ・サンドは、ハリエットを「聖者」と呼び、イギリスの国民的作家・ディケンズは最大の賛辞を贈り、ドイツの詩人・ハイネは聖書を片手にこの本を愛読し、後年、ロシアではトルストイが「ヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』やディケンズの『二都物語』に匹敵する傑作」と評したといわれています。つまり、アメリカ文学の存在がヨーロッパに認識されるきっかけにもなったのです。
この小説の連載が始まったちょうど10年後に、アメリカでは南北戦争が勃発します。この小説は、南北戦争の一つのきっかけになったといわれることも多いのですが、それはハリエットの本意ではありません。ハリエット自身は、この小説が平和の使者であれと願いながら書いたのですから。