「68万人を銃殺」ロシアのプーチン大統領が指針とするスターリンの「大粛清」とは

昨年5月、モスクワ地下鉄開通90周年にあわせてタガンスカヤ駅に、独ソ戦の勝利を祝賀するスターリンのレリーフが新造された。ウクライナ戦争を遂行するプーチン大統領にとって、大元帥スターリンは自身の指針となる政治家なのだろう。【写真を見る】「想像以上にイケメン…」 政敵を次々と銃殺刑に処したことでも知られる「若き日のスターリン」
スターリンと言えば、政敵を次々と銃殺刑に処した「大粛清(大テロル)」でも知られる。ロシア史研究者の池田嘉郎・東京大学教授の新刊『悪党たちのソ連帝国』(新潮選書)では、その経緯が詳しく書かれている。同書から一部を再編集して紹介しよう。

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レーニン死去の直後、ペトログラードはレニングラードに改称した。指導者を記念した都市名の改称は以前にもあり、たとえば1923年にガッチナはトロツキーにちなんでトロツクとなった(1929年まで)。1924年にエリサヴェトグラードがジノヴィエフにちなんでジノヴィエフスクとなり(1934年まで)、1925年にツァリーツィンがスターリンにちなんでスターリングラードとなった。彼らをはじめとする党幹部の抗争が、1920年代の残りの数年を彩ることになる。

 レーニンの後継者争いは、権力闘争であるとともに理論闘争でもあった。ネップ(市場経済を一部容認した新経済政策)に漂着したソヴィエト国家を、いかにして次の段階に導くべきかが問われていた。一番の争点は農業政策、端的には穀物の確保であった。ネップのもとでの穀物調達は、農民が生産する穀物を、国家が市場価格で買い付けることでなされた。だが、都市工業が十分な消費財(たとえば衣服)を生産できない一九二〇年代のソ連では、農民の購買意欲は刺激されなかった。それゆえ農民は、より多くの穀物を市場に売ってより多くの現金に換えようとは思わなかった。

 トロツキーは、資本主義諸国との経済関係を密にして、消費財を輸入することで農民の購買意欲を刺激することを構想したが、同時にまた、より直接に農民に経済的圧力をかけることも唱えた。生産能力の高い裕福な農民、いわゆる富農に対して重い税をかければ、彼らは現金が必要となるのでより多くの穀物を市場で売ることになると、トロツキーは考えた。

 これに真っ向から反対したのがブハーリンである。ブハーリンは富農に税制上の優遇措置をとる、重工業ではなく軽工業(消費財)の生産を優先するといった措置によって、農民への譲歩を続けることを主張した。漸進的に、ゆっくりと社会主義に向かうべきだとブハーリンは考えた。

 スターリンは「一国社会主義論」を提起した。ロシアは後進国であるが、ヨーロッパ革命の助けがなくとも社会主義の基礎を築くことはできるという議論である。この議論はブハーリンの対農民融和路線だけではなく、トロツキーの対農民強硬路線とも折り合いのつくものであった。

 さしあたりスターリンは、最も強硬なライバルであるトロツキーを抑え込むために、ブハーリンと組んだ。ジノヴィエフとカーメネフは当初スターリンの側にいたが、農民への融和が行き過ぎることとスターリンの権力が強大になり過ぎたことを危惧して、1925年秋にトロツキーと提携した。だが、人事権を掌握しているスターリンによりトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフは追い込まれ、1927年までに要職を追われた(トロツキーは1929年1月に国外追放となり、ひとまずトルコに受け入れられた)。

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