【山口組分裂「10年抗争」秘録】山口組弘道会支配の前史を辿る 五代目時代に無双を誇った山健組、運命を変えたのは親分専属ボディガードの拳銃所持摘発だった

山口組分裂の背景に、神戸を本拠とする山健組と名古屋を本拠とする弘道会の対立があったのは間違いない。分裂の真相に迫るためには、弘道会支配が始まる前時代を知る必要がある。誰よりも間近で抗争を見てきたライター、鈴木智彦氏が総括する。【第3回。前後編の前編】【写真】周囲もピリピリ 5年4か月の服役を終え、府中刑務所から出所した山口組の司忍六代目組長
2005年(平成17年)7月、山口組のドンである渡辺芳則組長が突然引退を表明、2016年にわたる五代目体制が終焉した。同時に山口組随一の大所帯で、「山健組にあらずんば山口組にあらず」とまでいわれた山健組は、当代組長の出身母体という最強タイトルを失冠する。

 以後、山口組の主流派といえば、司忍六代目を輩出した弘道会を指すことになる。暴力団員の大半は時流に敏感な風見鶏で、常に勝ち馬に乗ろうとするから、弘道会の組員数は続々と増加が見込まれる。

 五代目山口組時代、山健組の看板はヤクザバトルの最強カードだった。

 2000年前後、関東の半グレだったI氏は、東京の盛り場各地にクラブやキャバクラを出店し、山健組配下の組長にケツモチを頼んでいたという。ホステスの引き抜きや小競り合いでこちらに非のある話でも、山健組が出て行くと話をひっくり返せたらしい。

「反対に現場で揉めて6対4で勝ってたとするじゃないですか。同じ山口組でも弱い組織のケツモチじゃ、その後の話し合いで負けちゃうんですよ。惨めなもんです。でも山健が後ろ盾なら2対8でこっちが不利でも逆転できる。個人の器量や喧嘩の強さは関係ない。看板が勝負」(I氏)

 関西でも山健ブランドがあれば無茶をごり押しできた。相手が一般人でも、他団体でも、同じ山口組の二次団体であっても無双だった。

 当時、大阪の西成区には独立組織・酒梅組の常盆――365日営業で賽本引きを遊ばせる裏賭博場がいくつかあった。かなりの日銭が入るので、山健組による執拗な嫌がらせや賭場荒らしが日常だった。酒梅組出口組の盆中であるガレージは、出口組組長実弟の酒梅組絵馬屋三代目が、山健組若頭(当時)だった極心連合会・橋本弘文会長の養子となって移籍。その後、極亜会を結成して盆中の用心棒役を務めていた。

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