「女風呂の覗き見」を注意されて風呂屋を営む家族5人を殺害⋯逆恨みした凶悪犯(19)が「死刑」にならなかった“衝撃の理由”(昭和24年の事件)

〈「趣味は女風呂の覗き見」「注意されて逆ギレ」銭湯を営む家族5人を殺害⋯18歳・少年はなぜ死刑にならなかったのか?(昭和24年の事件)〉 から続く【写真】この記事の写真を見る(2枚)1949年、小田原で一家5人を殺害した18歳の男に死刑判決が下る。しかし、サンフランシスコ講和条約を機にした恩赦により無期懲役へ減刑、のちに仮出所を果たす。だがその結末は、さらなる凶行だった――。鉄人社の文庫新刊『 戦後まもない日本で起きた30の怖い事件 』よりお届けする。(全2回の2回目/ 最初から読む )

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一審で死刑判決を下した裁判長の三淵乾太郎(1906-1985)が直々に杉山を訪ね、控訴するよう強く説得したのだ。

 三淵曰く、世論、事例など諸般の事情から極刑を言い渡したが、自分は死刑反対の立場だ。個人としてはぜひ控訴審を闘ってほしい──。この言葉に押され杉山は控訴審に臨むも、東京高裁は1951年3月20日に控訴を棄却し一審の死刑判決を支持する判決を下す。

 同年9月6日の最高裁判決も上告を退け、死刑が確定。杉山は収監されていた東京拘置所から仙台拘置支所へ身柄を移送される(当時、東京拘置所には死刑執行の設備がなかった)。

 死刑囚監房で処刑を待っていた杉山に思いもよらぬ通達が寄せられるのは、それから1年後の1952年9月23日。「和歌山一家8人殺害事件」と同じく、前年1951年9月に締結されたサンフランシスコ講和条約を記念し戦後4回目となる恩赦が実施され、死刑から無期懲役に減刑されたのである。
杉山は宮城刑務所に移管され模範囚として過ごし、事件から21年後の1970年3月、38歳で仮出所する。これが大きな過ちだった。

 社会復帰した杉山は、刑務所で覚えた印刷の技術を活かして東京都内の印刷会社に就職。表向き、真面目な印刷工として働く。一方、杉山が住んでいた横浜市南区庚台のアパートの部屋は家出少女や不良少女たちの溜まり場になっており、1982年ごろからは、親が離婚し父子家庭だった川崎市中原区の小6少女(当時11歳)と同棲を始める。

 杉山は、いわゆるロリコンだった。しかし、1984年7月8日、当時13歳になっていた少女がアパートから彼女の友人である東京都杉並区在住の14歳の女子生徒の家に逃亡。杉山はそこに押しかけ「戻ってきてほしい」と懇願する。

 同日16時ごろ、家にいた女子中学生5人に「おじさん帰りなよ」と冷たくあしらわれ、同棲していた女子生徒にも「歳が違いすぎる」「別れたい」などと言われたため激昂。

 いったん外に出て金物屋で登山ナイフを購入した後、18時ごろ、公衆電話で13歳少女を「井の頭線の明大前駅にいるから来い」と呼び出す。

 少女は恐る恐る申し出に応じて、14歳生徒に付き添ってもらい杉山に会った後、杉並区永福1丁目の明治大学和泉校舎正門前・甲州街道の歩道橋上に移動。この間も杉山は必死に復縁を懇願したが、少女が頑として応じなかったため、2人をナイフで滅多刺しにする。

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