〈「まるで血の海」有名歌舞伎俳優の自宅から見つかったのは5人の遺体⋯2歳児まで殺した「大量殺人犯」は“被害者のすぐ側”にいた(昭和21年の事件)〉 から続く【写真】この記事の写真を見る(2枚)「食べ物の恨み」――そう語られてきた動機は、嘘だった。
歌舞伎界の名優一家5人を殺害した22歳の男。逮捕後、彼は犯行理由を「食事への不満」と供述するが、その裏にはまったく別の事情が隠されていた。
なぜ男は嘘をついたのか。そして本当の動機とは何だったのか――。鉄人社の文庫新刊『 戦後まもない日本で起きた30の怖い事件 』よりお届けする。(全2回の2回目/ 最初から読む )
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飯田は1923年(大正12年)、東京・浅草で生まれた。商業高校を卒業後、大阪へ養子に行き岸本姓から飯田姓に。終戦後の1945年9月末、徴用解除となって北海道の空知炭坑から復員してきたが、浅草の自宅は戦災に遭い、妹のまき子以外は全員死亡。
まき子は亡き父親が仁左衛門の座付作者だったことから仁左衛門宅で住み込みの子守として働いており、それをきっかけに飯田も父の跡を継ぎたいと同家に座付作者として住み込んでいた。
事件から2週間後の1946年3月20日、飯田は逃亡先の宮城県玉造郡川渡村(現在の大崎市)の川渡温泉で、同県警岩出山署(現在の鳴子警察署)の捜査員によって逮捕される。
同温泉は戦時下の1944年に妹まき子が学童疎開していた場所で、飯田自身もかつて妹を訪ね足を運んだことのある土地だった。
4月2日、身柄は警視庁捜査一課と管轄の原宿警察署に引き渡され、取り調べが始まる。飯田は素直に犯行を自供した。動機は、仁左衛門夫婦から受けた冷遇への恨みだという。
供述によれば、当初は仁左衛門の見習いとして劇場に出入りし、台本の整理や台詞の作製などを担当、家でも円満に過ごしていたそうだ。しかし、そのころは極めて貧しい時代。かつて大邸宅、愛人、別荘、自家用車などを所有していた歌舞伎の大役者も没落し、市川猿之助(初代市川猿翁。1888-1963)が自転車で楽屋に入り、八代目坂東三津五郎(1906-1975)が満員電車で劇場に通っていた。仁左衛門一家も例外ではなく、登志子さんは配給制の米を容器に入れ、鍵をかけて保管していたという。
同家では、主人一家と使用人とは食事と炊事は別々だった。当然、使用人に割り当てられる米の量は少ない。飯田はこの食に関する不平不満から登志子夫人との間に溝ができ、1945年末から翌年1月にかけて関西旅行に出た際、外食券(戦後の米の統制下において、外食する者のために発行された食券。1969年廃止)の送付を約束していたにもかかわらず、それを反故にされたため怒りを募らせた。
帰京後、状況はさらに悪化する。夫人は飯田に減食を申し渡し、炊事用として1人あたり1日1合3勺のみを与えた。これは朝に水のような雑炊、夜に盛ったご飯の2食がせいぜいの量で、摂取カロリーにして120〜130。飯田の年齢を考えれば、1日に最低限1千500〜1千600カロリーは必要で、このことから栄養失調寸前の状態だったと思われる。
空腹の飯田は蓄えていた金を手に闇市で食料を買った。が、その金もすぐに使い果たし、同情した近所の人からご飯を食べさせてもらったこともあるという。対して、夫人は「外聞が悪い」と叱責したそうだ。