現職の幹部自衛官(23歳)が、刃物を持って在日中国大使館(東京・港区)に侵入、逮捕された事件を聞いて、真っ先に思い浮かんだのは、安倍晋三元首相が銃撃されて死亡した事件だった。「国家として守るべき対象は、絶対に守らなければならない」――。それが事件の教訓だったはずだが、1時間程度の下見の末に、隣接するビルから柵を乗り越えて大使館の敷地に男が侵入したことに気づかなかったという。事件は警察の失態と言っていい。
警察庁は警備強化の通達を発出し、3月30日、同庁の楠芳伸長官が、警察官が常駐警備する大使館などを管轄する12都道府県警の幹部らを緊急招集し、「あらゆる可能性を考慮し、危険箇所を速やかに点検すべき」と訓示したのは、警備態勢の危うさを認識したからにほかならない。警察当局には再発防止に万全を期してもらいたい。
と同時にこの事件では、今の日中関係の政治的な悪化が個人のレベルにまで深刻な影響を及ぼし、犯罪にまで至ってしまったことを認識しなければならない。本稿では、新たな犯罪者を生まないために政府が取り組むべき課題を指摘したい。
事件の背景には、中国が日本人の感情を逆なでし続けていることがある。台湾有事を巡る高市早苗首相の発言以前から、根拠もなく沖縄・尖閣諸島の領有権を主張し、領海侵入や嫌がらせを繰り返してきた。首相発言後は、駐日中国大使が「日本の民衆が火の中に連れ込まれることになる」と脅す暴言を吐き、大阪の中国総領事が、高市首相の斬首をSNSに投稿している。
さらに中国は、日本産水産物やレアアース(希土類)関連物品の輸出入など通商を絡めた不当な圧力をかけ続け、中国軍機が自衛隊機に射撃レーダーを照射するといった危険で悪質な行為も頻発させている。これだけやられれば政府の対応が鈍くなっても仕方がないと思うかもしれないが、それこそ中国の思う壺だ。
事件を時系列で振り返ると、(1)3月24日午前9時ごろ、自衛官が中国大使館の敷地に侵入 (2)正午過ぎ、同大使館が警視庁に通報 (3)午後4時ごろ、自衛官の身柄が日本側(警視庁)に引き渡される (4)午後9時過ぎ、同庁が建造物侵入容疑で自衛官を逮捕 (5)午後10時過ぎ、同庁が記者発表――という流れだ。
しかし、警視庁が発表する5時間も前に、中国外務省の報道官が会見し、「(犯人は)神の名のもとに中国外交官を殺す」と脅し、「日本国内に極右思想と勢力がはびこり、新型軍国主義が勢いを増し、害を及ぼしている」などと主張、日本で起きた事件にもかかわらず、真偽も定かでない中国の言い分だけが拡散してしまった。
それでも政府が対応の遅れを挽回する機会はあった。それは翌25日午前、木原稔官房長官が「誠に遺憾だ」と発言した場面だ。
この機会を捉え、(1)「ウィーン条約」に基づき、大使館など外国公館の安全は、受け入れ国(日本)に責任がある (2)仮に北京の日本大使館で同種の事件が起きれば、日本政府は間違いなく抗議する――などと説明しながら、「大使をはじめ中国大使館の方々には多大なご迷惑をおかけした」と普通に謝罪の姿勢を示しておけば、ここまで政治問題化することはなかっただろう。前述した(1)と(2)の根拠を示せば、誰も謝罪する政府を非難などしない。