各界の著名人が気になる本を紹介する連載「読まずにはいられない」。今回は生物学者の福岡伸一さんが、『美術館強盗事件簿 10ヵ国10事件の顚末』(フィリップ・デュラン著、神田順子、田辺希久子訳)を取り上げる。AERA 2026年3月16日号より。【写真】1911年のモナ・リザ盗難事件をはじめ、20世紀以降に美術館で起きた名画盗難事件を描いたノンフィクション* * *
本書は、1911年8月22日のルーブル美術館の朝の情景から始まる。フランス人画家のルイ・ベルーは、いつも通り一般客よりも前に入館した。芸術の国フランスでは、アーティストは優遇されていたのだ。彼は、足繁くルーブルに通って先人たちの名画をスケッチしていた。そのための画材もルーブル館内においていた。大展示室サロン・カレに入ったベルーは「モナ・リザ」が壁から外されていることに気づいた。館内工事の都合、あるいは資料撮影のために一時的に移動されている可能性があったが、警備係も事情を知らなかった。各所に連絡がなされたが誰も何も知らなかった。知るはずもない。「モナ・リザ」は前日ひそかに盗難されていたのだ。ルーブルはパニックに陥った。このスリリングな大事件の内幕を知るだけでも読むに値する本だが、気がせく読者のために要約すれば、絵は2年後にイタリアで発見され、犯人は逮捕、「モナ・リザ」は無事ルーブルに戻った。
この事件がモデルケースとなり、美術品の盗難対策、警備体制、国際的な捜査網などが拡充されることになる。同時に、美術品の盗難は決して割に合う犯罪ではないことも周知されることになる。有名であればあるほどマーケットに出すことが困難になるからだ。それでも盗難事件はあとを絶たなかった。本書では、ロンドン、オスロ、フランクフルト、ヴェローナなどで起きた事件を詳述し、盗む者と盗まれる者の心理が活写される。
ちょっと残念なことは、本書には、フェルメール盗難事件が含まれていないこと。私は当時、研究者の卵としてボストンで修業していた。イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館が所蔵しているフェルメールの傑作「合奏」を見に行きたいと思いつつ、窓のない地下の研究室で、実験動物を解剖したり、細胞をすりつぶしたりする日々に忙殺され、徒歩15分の距離なのに、なかなか実現できなかった。この週末こそは行こうと思っていた矢先、衝撃的なニュースを知った。美術館内部を検分すると言って、深夜、ボストン市警の制服警官が美術館の警備員室にやってきた。これがトリックだった。警備員を縛り上げたニセ警官は、まっすぐ美術館の2階に上がり、フェルメールとレンブラントなど重要作品を盗み去った。1990年春のことである。目利きの犯行であることは間違いないが、絵はいまだに見つかっていない。
もうひとつ、原著2024年刊の本書では、2025年10月、白昼堂々起きたルーブル強盗事件にも触れられていない。本書でも書かれているように「モナ・リザ」と同じダ・ヴィンチ作(とされる)「サルヴァトール・ムンディ」は4億5千万ドルの値がついた。落札したのはサウジアラビアの王族だった。新たな作品がどこからともなく発見され、驚くほどの価値を生み出す。それがゆえに盗む者の欲望が尽きることはない。
ふくおか・しんいち◆生物学者、青山学院大学教授。著書に『生物と無生物のあいだ』『動的平衡』『生命の逆襲』『生命海流』『新ドリトル先生物語 ドリトル先生ガラパゴスを救う』『生命と時間のあいだ』など。
※AERA 2026年3月16日号