『ドラゴンマガジン』『富士見ファンタジア文庫』といったライトノベルの礎を築いた安田猛氏。分厚い文芸誌が主流だった時代に、“400字×30枚”という短編のフォーマットやイラスト印税の導入など、型破りな挑戦を重ねてきた安田氏だが、25歳の若さで編集の最前線に立ち、同人文化で培われた独自の発想と現場主義によって、新たなコンテンツの創造と開発に挑み続けた。ジャンルの垣根も常識も越えた“キメラ”な雑誌はいかに誕生したのか、今では主流の「挿絵の入った、ラノベ特有の文体やスタイル」はどう作られたのか──その舞台裏について安田氏に聞いた。
少女マンガ誌『Asuka』での編集経験を経て、安田猛氏は次に富士見書房の新しい試みに関わっていく。そこで担うことになるのが、のちにライトノベル文化の礎となる『ドラゴンマガジン』創刊と、若い読者に向けた新しい小説フォーマットの開発だった。
──1988年に発刊されるドラゴンマガジンの秘話をお聞きしたいです。1986年に富士見書房(角川書店の子会社)に入社し、SF・ファンタジーに詳しかった小川洋さんが呼ばれ、最初書籍をベースでしようとしたら「こういうジャンルは新人が重要。新人を獲得する時には新人賞を作らなきゃいけない。新人賞を作るには雑誌が必要だ。雑誌を作れ」と角川歴彦さんに言われ、雑誌になった、というお話をお聞きしたことがあります(注1)。
安田猛(以下、安田)氏:その当時の文芸誌は、どこもめちゃめちゃページが分厚かった。300~400ページくらいあって、とにかくたくさんの作家に書いてもらう。なぜなら雑誌で連載していれば、定期的に原稿がたまって単行本が出しやすいというのもあるけれど、それ以上に「原稿料が出せる」から作家を食べさせていけるわけですよ。なるべく多くの作家を育てようという気概がありましたね。
注1:山中智省2018ライトノベル史入門 「『ドラゴンマガジン』創刊物語―狼煙を上げた先駆者たち」勉誠出版
──名前も特殊ですよね。角川春樹さんに持っていったら、「いいんじゃないか。雑誌名は『ファンタジア』がいいと思うんだ」…今度はそれを角川歴彦さんに見てもらったら、「こんなんじゃダメだ。版型はA4版、雑誌名は『ドラゴン』がいい」と言われて、「『えー、カッコ悪い(注2)』と思う面もあったんですけど」と安田さんが語っています。
安田氏:文芸誌だとお堅くて若者たちに受け入れられにくい、その時に皆で考えていたのが「情報誌ではなくコンテンツ開発雑誌だ」ということなんです。小説、マンガ、ゲームを自分たちで、誌面で開発して発信していくんだ、とね。高校生のころからやってきた同人活動の発想そのままですよね(笑)。
注2:山中智省2018ライトノベル史入門 「『ドラゴンマガジン』創刊物語―狼煙を上げた先駆者たち」勉誠出版
──アニメックでアルバイト、副編集長など経験が長いとは言っても20代半ばの“若手”の安田さんが呼ばれたのはどういった理由があるのでしょうか?
安田氏:1987年、私が25歳の時ですね。「ジュブナイル向けの小説雑誌を作りたい」と小川洋さんから声をかけられました。もう同人サークルやアニメ誌の時代から雑誌を作ってきたので、台割も切れるし、刊行スケジュールも立てられる。イラストレーターやマンガ家の手配もできる、というので重宝されました。
出版業界は好景気で、新興の角川書店では次々と雑誌が立ち上がっていた時代ですから、人手不足で若手でもちょっと経験がある人間だったらチャンスがもらえたんじゃないかと思います。
──雑誌作りはどうやって進むんですか? 最初は「『獅子王』(朝日ソノラマのSF・ファンタジー小説誌、1985~1992)を参考に小説連載1回分のフォーマットを作り、企画数を立てた」と聞きます。
安田氏:掲載小説の基本フォーマットを作っていくところからですね。他誌と比べて連載する原稿用紙の枚数を減らしました。400字×30~40枚でフォーマットを作って、短めにまとめるようにしていきました。普通の連載小説は倍の70枚くらい、でもそれだと中学生や高校生が毎月、雑誌を読み切るのは大変です。彼らに「読み切る達成感」を持たせたかった。文章もセリフ劇っぽい形にして。
毎月の短い連載ページで起承転結をつけさせるというやり方は、脚本作りに近いですね。それでスピード感があって、テンポも良く書かれていて、読みやすいと読者アンケートも上位に上がってきます。作家自身も学習するんですよ、「テンポ良くスピード感をあげることが、価値をあげることだ」と。読みにくい状況描写やキャラクター造形は、挿絵に補完させて、更に読みやすさを追求していきました。