母親を殺した父親は死刑囚。大山寛人さん(38)は被害者の子であり、加害者の息子でもある。毎朝「今日かもしれない」と覚悟を決め直しながら、仕事と発信で社会に何を伝えようとしているのか──。【写真】大山清隆死刑囚から息子の寛人さん宛てに届いた手紙* * *
毎朝、目が覚めるたびに「覚悟」を決め直す。
「父の死刑の執行は今日かもしれない。そう思いながら、覚悟を決めて起床する。その日々の繰り返しです」
大山寛人さん(38)は静かに語る。父親は大山清隆死刑囚(64)。父親は人を殺した。殺されたのは母親(当時38)だった。
広島市で生まれた大山さんは、両親の深い愛情に包まれ、何不自由なく育った。しかし小学6年生の12歳のとき、その日常は突如、崩壊した。
2000年3月2日の深夜、父親から夜釣りに誘われた。急いで釣り具を準備し車に乗り込むと、母親は助手席のシートを倒して横になって眠っていた。
港に着くと、大山さんと父親は母親を車内に残し、離れた場所で別々に釣りを始めた。すると、父親が「いま海に何かが“ボチャン”と落ちる音が聞こえなかったか?」と言った。
■消えた母親
車に戻ると、母親の姿がどこにもない。その瞬間、先ほどの父親の言葉が頭をよぎり、一気に血の気がひいた。ほどなくして、海面に浮かぶ母親が見つかった。すぐに海から引き揚げられたが、人形のようにぐったりしていた。葬儀の後、父親から「これからはお母さんの分まで生きよう」と声をかけられたのを覚えている。
ただ、このときは何もわかっていなかった。2年後の中学2年生のとき、父親が詐欺容疑で逮捕された。大山さんは逮捕の理由も知らされないまま、母方の親戚の家に引き取られた。
■ずっと知らされなかった事件
中学3年生でさらに転校した。ほどなくテレビで父親のニュースが流れた。
「広島連続保険金殺人事件」
テロップが出て、父親が自宅の浴槽で母親を殺害し、その後、遺体を海に遺棄。その2年前にも養父(当時66)を殺害し、生命保険金を不正に受け取っていたと報道された。
一体どういうことか? あの夜、夜釣りに出かける前に、母親はすでに殺害されていたのか。釣りは殺害を隠蔽(いんぺい)するための工作だったのか――。
「うそだぁぁぁ」
狂ったように叫び続けた。やがて、この手で父親を殺してやりたいと思うほど強い憎しみが募った。
父親への憎しみと、殺された母親への悲しみに襲われるなか、大山さんは「人殺しの息子」になった。
周囲から「カエルの子はカエル」と言われ、学校ではいじめに遭うのではないかと思うと怖かった。
いじめられないためには強くなればいい。選んだのは、非行に走ることだった。バイクを盗み、けんかをし、シンナーを吸い、いつの間にか不良グループの中心人物になっていった。
中学を卒業と同時に施設に入れられたが、入所の条件だった高校も3日で行かなくなった。その後すぐにバイクの窃盗で少年鑑別所に入り、出てきたときには施設からも受け入れを拒否された。助けてくれる大人はおらず、ホームレスになり、公園のベンチや障害者用トイレで寝た。
「みんなには帰る家があって、帰ればご飯があって風呂に入れます。なのに、何で俺が帰る場所は公園なんだって。本当につらかったですね」
ある日、薬局から風邪薬860錠を万引きし、一気に飲み干した。しかし、死にきれなかった。
2005年4月、17歳のとき、友人から新聞を渡された。そこには、父親が広島地裁で「死刑判決」を下されたと書かれていた。
それを見て動揺し、「あんなやつ死んで当然だ」と思った。だが、楽しかった家族の思い出がすべて偽物だったとはどうしても思えなかった。死んでしまう前に直接罵倒し、真相を聞こう――。
数カ月後、大山さんは広島拘置所に向かった。アクリル板の向こうの父親は、頰はこけ、やせ細り変わり果てていた。父親は「ごめんな」と泣きながら何度も謝った。その姿を見て、父親への怒りは薄れ、やがて恨むことを終わらせようと決めた。そこからは一切、非行もやめた。
「父を憎しみ続けることで、僕は前に進めなかった。だから、終わりをつけた」