那須容疑者母親が見つけたのは布団に倒れる“血だらけの娘”…「熱心さが裏目に」捜査にも協力した25歳男性が逮捕された「驚きの経緯」(昭和24年の冤罪事件)

「犯人とそっくりです」――その一言が、25歳の人生を決定づけた。血痕、鑑定、目撃証言。すべてが“犯人ありき”で積み上げられていく。【写真】この記事の写真を見る(2枚)戦後間もない青森で起きた大学教授夫人殺害事件は、やがて一人の青年を追い詰める冤罪劇へと変貌した。なぜ捜査に協力した男が疑われたのか? 新刊『 世界で起きた恐怖の冤罪ミステリー35 』(鉄人社)より、衝撃の真相をひもとく。(全2回の1回目/ 後編を読む )

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1949年(昭和24年)8月6日23時ごろ、青森県弘前市在府町の弘前医科大学(現・弘前大学医学部)付属病院の内科部長を務める松永藤雄教授(当時38歳)の自宅に1人の男が侵入した。

 このとき家にいたのは妻のすず子さん(同30歳)と長女(同4歳)、すず子さんが実家から呼び寄せていた母親の3人。松永教授は同月3日から1週間の予定で長男を連れ青森市に出張に出かけており当日は留守だった。

 3人が川の字になり寝ていた1階8畳間の蚊帳の中に入り込んできた男に気づいた母親が目を覚まし声をあげると、男が逃走。動転した母親が目にしたのは、血だらけで布団に倒れている娘のすず子さんだった。通報を受け現場に急行した弘前市警の調べで、彼女が頸動脈を鋭利な刃物で傷つけられ、出血多量によりすでに死亡していることが判明。遺体に性的暴行の痕跡はなく、奪われた金品もなかった。

 翌朝、警察が行った現場検証で事件現場となった8畳間縁側の窓ガラスに犯人が侵入した際に付けたと思われる指紋が見つかり、現場周辺の道路で血痕と足跡が確認された。そこで警察犬を使い足跡の臭いを追跡したところ、現場から200メートル離れた武家屋敷が並ぶ場所で犬の足が止まる。警察は周辺に事件に関与したものがいると推定し、近隣の前科者などを洗ったが、芳しい結果は得られなかった。
捜査が遅々として進まないなか、警察は1人の男に疑惑の目を向ける。まさに、警察犬が足を止めた付近に居を構えていた那須家の二男・隆さん(同25歳)。1943年に東奥義塾(現・東奥義塾高等学校)を卒業後、満州国興安総省の開拓団指導員や青森県通信警察官としても働いていたが、戦後の1946年に通信警察官制度が廃止されて以降は定職に就けず、事件当時は無職。

 ただ、警察官に復職したいという強い思いから、事件の一報を聞くや現場に駆けつけ自主的に聞き込みを行ったり、自転車で走り回っては不審人物を捜索し警察に通報、また自宅の周辺から血痕や凶器を発見しようとするなど懸命に捜査協力していた。

 しかし、皮肉なことに、その熱心さが仇となる。那須さんが持ち込む情報が的外れなものばかりだったことから、自分の犯行を隠すため、わざと他人を犯人視しようとしているのではないかと疑われたのだ。

 さらに、那須家付近から被害者すず子さんのものと同じB型の血痕らしきものが発見されたことも疑惑を深めていた。しかし、当時は確たる物的証拠を起訴条件に定めた新刑事訴訟法が施行(1949年1月1日)されたばかり。警察は那須さんを容疑者として扱うに十分な決め手を持っていなかった。

 事態が動くのは8月21日夕方のこと。那須さんが高校時代の後輩の家に預けていた白いリンネル製のズック靴を警察が押収した。これを青森市内の内科・小児科開業医である松木明(1930‒1981)に鑑定させ、「被害者と同じB型の血液が付着している」という回答を得たことで、翌22日、那須さんに任意同行を求め、その際、彼が着ていた海軍用の白い開襟シャツも押収する。

 同日19時50分、警察は殺人容疑で那須さんを逮捕。自白を得るべく強引な取り調べを行う。弁護士との接見は一切禁止、トイレにもろくに行かせず、さらには殴る蹴るの暴行。特に警察が追及したのが事件当夜のアリバイである。那須容疑者の供述は「友人と会っていた」「外出していた」など二転三転し、最終的に「自宅にいて近所の住民が氷を削る音を聞いていた」としたが、当該の住民はこの供述を否定する。

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