1948年3月16日。BC級戦犯を米軍が裁いた横浜軍事法廷で、石垣島事件の判決公判が開かれた。終戦の4か月前、海軍の石垣島警備隊では、撃墜した米軍機からパラシュートで降下した搭乗員3人を捕らえて、その日のうちに殺害。うち一人は杭に縛って刺突訓練の的にしたため、関与した兵が多く、その日判決を迎えたのは全部で45人だった。最初に一人を斬首した幕田稔大尉は山形の出身。息子の判決に立ち会おうと、母トメは東京へ向かったー。【写真で見る】死刑の宣告を受ける幕田稔大尉 息子の判決を法廷でみつめたとされる母のトメ
石垣島で海軍の特攻・震洋隊の隊長を務めていた幕田稔大尉は、事件の当日、石垣島警備隊の井上乙彦司令に呼び出され、命令通りに米兵を斬首した。山形市にあった幕田家に残された資料の中に、英文のものがあった。横浜裁判を担当する米国の第八軍が発行したもので、日付は判決当日の1948年3月16日だ。幕田大尉の母、トメと、弟の豊の名前が入ったものがそれぞれ1枚ずつあった。
3月16日から20日の間に、上野から山形へ向かう列車のチケットを優先的に買えるようにするものだった。幕田の判決公判を傍聴に行ったのは、トメと弟の豊の二人だったのだろう。二人の帰りの便がスムーズに取れるように米軍が配慮して出したものとみられる。戦犯裁判の関係での移動であり、特急のチケットがとれるようリクエストしている。
傍聴したトメの目の前で言い渡された幕田への判決は極刑の絞首刑だった。そして幕田以外の40人にも絞首刑が宣告された。次々と言い渡される極刑に、担当していたアメリカ人の女性弁護士が泣き崩れるという異例の事態だった。
〈写真:帰りの鉄道チケットをリクエストする書類〉
幕田を担当する弁護人の金井重男弁護士の印鑑が押された文書の下書きが、国立公文書館に残されていた。異例の判決後、弁護人たちが意見書を提出したようだ。
<石垣島事件の判決関する意見>
本事件の判決は、昭和23年3月16日言い渡されたが、それによると、45名(他に1名起訴されているが病気のため分離)中2名は無罪、2名は重労働(1名20年、1名5年)となったが、他の41名は絞首刑であった。それは無罪者2名を除けば、検察官の主張が全面的に認められ、被告人自身の公判までにおける自由意志に基づく供述、及び、これに基づく弁護人の主張は、全く無視されたことを意味する。結果から見れば、約3ヶ月半にわたる審理は、ほとんど無かったに等しい。我々としては、被告人及びその家族と共に、色々の点でこの裁判には到底納得することができない。それは裁判ではなく、裁判の型式を借りた報復であると考えられてもやむをえないもので、米軍の軍事裁判の権威及び名誉の為にも十分検討されねばならぬと考える。
〈写真:死刑の宣告を受ける幕田稔大尉(米国立公文書館所蔵)〉