田中泯「急所にだけ包帯を巻き、全身を泥人形のように土色にして、〈身〉一つになってどこででも踊る。何回警察沙汰になっても続けたスタイルの理由は」

演劇の世界で時代を切り拓き、第一線を走り続ける名優たち。その人生に訪れた「3つの転機」とは——。半世紀にわたり彼らの仕事を見つめ、綴ってきた、エッセイストの関容子が訊く。第49回はダンサーの田中泯さん。大学を中退し、クラシックバレエとモダンダンスを習い始めたという田中さん。そこから、「身」一つになってどこででも踊るスタイルに行きついた理由は——。(撮影:岡本隆史)【写真】映画『国宝』で女形の役をするために…* * * * * * *

◆八王子の神社で盆踊りに出合って

〈名付けようのない踊り〉を踊るユニークなダンサーであり、2002年には57歳にして『たそがれ清兵衛』で映画初出演。一作で名優の域に達してしまった不思議なアーティスト。

大ヒット中の映画『国宝』で、田中泯さん演じる女形の小野川万菊の圧倒的な存在が大画面を制圧した。映画の話題に心は逸るが、まずはその生い立ちから。

——敗戦の年(1945年)の3月10日、東京大空襲の日に僕は生まれました。その頃は中野にいて、家は焼けなかったんですが、警察官で桜田門に勤務していた父は、一週間くらい家に帰って来られなかった。

大勢の人が隅田川に飛び込み、川にいっぱい死体があるというんで、父は向島の言問橋あたりまで行っていたんです。その話は母親からもさんざん聞かされてきたので、もう自分で見たかのような3月10日が頭の中にできちゃってます。

父親が帰ってきて僕を見たら、片手にポンと乗っかるくらい小さくて——つまり未熟児ですよね。母親は牛乳だのレバーだので一生懸命僕を大きくしようとしましたが、中学を出るくらいまでは、クラスで一番背が小さくて。

でも高校一年の終わりぐらいから急に伸びだして、長身になりました。体を心配した母親が僕にバスケットボールをやらせたのも、だんだん大きくなったきっかけだったと思うけど、僕はスポーツの世界にはどうしても馴染めませんでしたね。
踊りの世界に気持ちが向いたのはその頃でしょうか。もっと小さい時?

——そうですね。子どもの頃に八王子の神社の広場で盆踊りに出合ったのが最初かな。家から延々と暗い道を、缶カラに燭を立てて従兄弟たちと歩いて行くと、だんだん明るい光が森の中から見えてきて、着くとそこでみんなが踊ってる。僕はすぐにその輪の中に入って、自己流で踊りましたね。

大学に入ったものの結局中退して、今度は正式に踊りを習ってみようと思い立って、クラシックバレエとモダンダンスを始めました。

戦後にできたアメリカ文化センターには本国から踊りの教師がよく来てて、日本人を教えてる。そこで教わった人たちから、僕はモダンダンスを習ったんです。

マーサ・グラハムがかなり晩年に来日した時、舞台挨拶なさるのをエスコートしたことがありますよ。アキコ・カンダさんのスラーッとした踊りも見ています。これがアメリカの踊りか、と思ったものです。

しかしその後、なぜクラシックバレエやモダンダンスと訣別したかと言えば、踊りの本質を考えた時に、劇場で踊るというのはヨーロッパから来た文化だよな、と。お客は客席の権利を買って、それぞれがその権利を持って見てる。

衣装も何か変だし、客席も変だな、窮屈だなと思い始めたら、裸体になり、体中の毛を剃り、急所にだけ包帯を巻き、そして、全身を泥人形のように土色にして、「身」一つになってどこででも踊るスタイルに行きついた。

人に見せるというよりは、踊りがどこにあるのかを僕自身が感じ取りたくて、そんな試みをしていた、というものです。

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